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【すごいぞ日本人】 イギリス将兵を救った日本海軍の駆逐艦と工藤俊作艦長! 

読了までの目安時間:約 19分

 


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【すごいぞ日本人】

イギリス将兵を救った

. 日本海軍の駆逐艦   

     「雷=いかづち

             艦長 工藤俊作 

 

 

平成15(2003)年10月26日、

第23回の自衛隊観艦式が行なわれました。

 

東京、横浜、横須賀、他の港から、

それぞれ出港した艦艇が集結し、

相模湾に向かいます。

 

先頭を行くのは海上自衛隊護衛艦

『雷(四代目)=いかづち』です。

 

この雷をイギリスの老紳士が、

万感の思いで見つめていました。

 

 

彼は「サー」の称号を持つ、

元イギリス外交官サムエル・フォール氏。

 

84歳という高齢でありながら、

しかも心臓病を押しての来日です。

 

自分が死ぬ前に、どうしても

一言お礼を言いたかったのです。

 

この年になっても、

一度として彼のことを

忘れたことはありません。

 

雷「いかづち」の館内に

ご案内されたフォール氏は、

九死に一生を得たある出来事を、

静かに語り始めました。

 

それは、これまで日本人の

誰もが知らなかった、

二代目「雷」・工藤俊作艦長の

戦場での奇跡の物語でした。

 

先の大戦中、日本軍が敵国に対して見せた

武士道精神とはいかなるものであったか。

 

なぜ、日本では語られることが無かったのか。

 

フォール氏の証言は、工藤艦長の偉業を

知る事が出来たばかりでなく、

 

イギリスでの反日感情を覆すことになった、

非常に貴重な証言であります。

 

今回は、「雷」工藤艦長の

奇跡の物語をご紹介します。

 

 

.  奇跡の艦「雷=いかづち」 

 

昭和17(1942)年2月27日から3月1日にかけて、

ジャワ島北方のスラバヤ沖で、

日本艦隊と、英、米、蘭の

連合艦隊が激戦を繰り広げ、

 

日本艦隊は15隻中11隻を撃沈し、

大勝利を修めます。

フォール氏は当時20歳、

イギリス海軍の駆逐艦『エンカウンター』に、

砲術士官として搭乗していました。

 

フォール氏を含む四百数十名のイギリス兵は、

砲撃を受け海へ投げ出されます。

 

沈没艦から流失した重油の海に漂いながら、

救命ボートに掴まり、オランダ軍の

救援をひたすら待ち続けます。

 

食料も飲み水もないまま一夜を明かすと、

今度は赤道付近特有の

灼熱の太陽が照り付けます。

 

フォール氏は、体力はもちろん、

生きる望みも失っていきました。

 

そこへ日本の駆逐艦が近づいてきます。

 

日本人は未開で野蛮という

先入観を持っていたため、

 

『間もなく機銃掃射を受けて、

いよいよ最後を迎える』と覚悟します。

 

固唾を呑んで見つめるイギリス兵たち。

 

ところが、駆逐艦はマストに救難活動中の、

国際信号旗を掲げ、救助艇を下してきたのです。

 

 

敵の攻撃をいつ受けるかわからない状況では、

国際法上は海上遭難者を放置しても

違法ではありません。

 

機銃掃射を浴びせるなどしなくても、

放置すれば漂流者は遅かれ早かれ死に至るでしょう。

 

敵を救おうとする日本帝国海軍の行動に、

フォール氏は目を疑いました。

 

その後、広大な海域に四散したすべての漂流者は、

数時間かけて救助されました。

 

この救助にあたったのが駆逐艦『雷』だったのです。

『雷』の乗組員は約120名、

救助したイギリス兵422名。

 

『雷』の甲板には重油まみれの

怪我人で溢れ帰りました。

 

中には気力を失い、絶命したものもいます。

そんな中、『雷』の乗組員は一人一人両側から支え、

服を脱がし、真水で体を洗浄してくれたそうです

 

フォール氏は、

その時のことをこう振り返っています。

 

『帝国海軍水兵達は、

嫌がる素振りを全く見せず、

むしろ暖かくケアしてくれました。

 

それは全く思いもよらなかった

ことだったのです。

 

 

友情溢れる歓迎でした。

私はまさに奇跡が起こったと思い、

これは夢ではないかと、

自分の手を何度もつねったものです。

 

「石油の一滴は、血の一滴」と言われた時であり、

また、感慨の真水を作るために

増水装置を作動させるにも

燃料を消費します。

 

そのため絶えず燃料節約に努力し、

また、乗組員は真水を節約するため、

洗面や飲料水にも細心の注意を心がけていました。

 

それを敵兵救助のために、

船の停発進を繰り返して燃料を激しく消耗し、

重油で汚染された敵兵を洗浄するため、

 

アルコールやガソリンを使い、

更に真水まで使用してくれたのです。

 

イギリス兵を救った奇跡の船『雷』。

 

その奇跡の決断を下したのが

『工藤俊作艦長』でした。

 

 

『敵兵を救助せよ!』 工藤艦長の決断!

 

『左30°、距離8000(8㎞) 浮遊物多数!』

見張りの報告に工藤艦長は、

第三艦隊司令官宛てに無電発信します。

 

『我、タダイマヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル』

 

敵潜水艦に攻撃される恐れのある中での救助、

それも、その救助する対象は敵将兵です。

 

『雷』乗組員の倍以上にも及ぶ敵将兵が、

乗艦したらどうなるか・・・。

『艦長は正気なのか?』と、

不安を感じたものもいたでしょう。

 

そんな不安を吹き飛ばすように、

工藤艦長が日本海軍史上、

極めて異例の号令下します。

 

『一番砲だけ残し、総員、敵、溺者救助用意!』

 

当時の様子を佐々木一等水平(当時21歳)が

次のように回想しています。

 

筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と、

怒鳴り、縄梯子を出しましたが、

誰も上がろうとしません。

 

敵側からロープを送れの

手信号があったのでそうしましたら、

 

筏上のビア樽のような高級将校にそれを巻きつけ、

この人を上げてくれの手信号を送ってきました。

 

五人がかりで苦労してあげましたら、

その人は『エクゼター』副長で、

怪我をしておりました。

 

それから『エグゼタ―』艦長、

『エンカウンター』艦長が上がってきました。

 

そのご敵兵は、われ先に

『雷』に殺到してきました。

 

一時パニック状態になりましたが、

ライフジャケットを着けた

英海軍の青年士官らしい者が、

後方から号令をかけると、

整然となりました。

 

この人は独力で上がれない者には、

我々が差し出したロープを手繰り寄せて、

負傷者の体に巻き、

そして、引けの合図を送り、

多くの者を救助しておりました。

 

『さすが、イギリス海軍士官』と思いました。

 

救助されたイギリス兵には、

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衣服や食料が与えられ、

士官には腰掛も用意されました。

 

しばらくの休憩の後、

工藤艦長はイギリス海軍士官全員に

集合を命じます。

 

士官全員が恐る恐る集合すると、

艦橋から降りて来た工藤艦長は、

彼らに端正な敬礼をした後、

流暢な英語でスピーチを始めました。

 

『貴官達は勇敢に戦われた。

  今や貴官達は日本帝国海軍の

  名誉あるゲストである』

 

イギリス兵は、翌3日午前6時30分、

オランダ病院船

『オプテンノート』に移乗しました。

 

移乗する際、士官たちは

『雷』のマストに掲揚されている

「旭日」の軍艦旗に挙手の敬礼をし、

 

また、向きを変えて舷門で

直立して見送る工藤艦長に

敬礼して『雷』を後にしました。

 

工藤艦長は答礼しながら、

温かな視線を送りました。

 

『敵とて人間。

   弱っている敵助けずして、

   フェアな戦いはできない。

 それはが武士道である』

 

工藤艦長の信念によって、

世紀の救助劇はこうして起こったのです。

 

 

戦後の“フォール氏”と“工藤艦長”

 

 

捕虜となったフォール氏は、

イギリス人、オランダ人、アメリカ人、

インドネシア人が集まる収容所の

環境を利用して、様々な外国語を学び、

語学の才能に目覚めます。

 

その後セレべスの東岸にある

バマラで終戦を迎え、

昭和20年10月29日に、

リバプールに帰還しました。

 

フォール氏は、戦後、

外交官として活躍し、定年退職後、

 

平成8(1996)年に、

自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓。

その巻頭に

『元帝国海軍中佐・工藤俊作に捧げる』

  と記しました。

 

平成10(1998)年4月29日、フォール氏は

『雷』による救出劇を『英タイムズ紙』に投稿し、

『友軍以上の丁重な処分を受けた』と強調しました。

 

イギリスには戦後日本軍の捕虜になった

英軍将兵たちが『虐待された』と喧伝し、

日本に賠償を求める動きがありました。

 

また、この年の5月には、

天皇皇后両陛下(当時)が

訪英される予定があり、

 

元捕虜たちは、この訪英に反対、

天皇の謝罪を求める投稿文も、

フォール氏の投稿文と同時に掲載されます。

 

するとどうでしょう。 

フォール氏の投稿文によって

反日感情がことごとく覆されたのです。

 

さて、工藤艦長はその後、

どのような人生を歩んだのでしょうか?

 

『雷』の次に駆逐艦『ひびき』の

    艦長に就任しますが、

 

昭和19年頃から体調を崩し、

翌年3月15日に待命となり、

そのまま終戦を迎えます。

 

戦後は故郷の山形、縁故先の

埼玉県で過ごしますが、

戦時中のことは、

ほとんど他言しなかったそうです。

 

 

海上自衛隊や、同期が在籍する大企業からの

招きも全部断っていました。

 

工藤艦長の日課は、

毎朝、死んでいった同期や部下の冥福を祈って、

仏前で合掌することから始まります。

 

楽しみは、毎晩、かよ夫人に注がれる晩酌と、

毎月送られてくる雑誌『水交』に目を通し、

先輩後輩の消息を知ることであったそうです。

 

昭和54(1979)年、

病魔に冒され78歳の生涯を閉じました。

 

 

. 現代日本を守る武士道精神 

 

フォール氏は来日から数か月後、

 

工藤艦長のご遺族の元に

『雷』救出劇の詳細が知らされます。

 

工藤艦長の甥、七郎兵衛氏は、

『叔父はこんな立派なことをされたのか、

生前、一切軍務のことは口外しなかった』と、

落涙したそうです。

日本帝国海軍の伝統を忠実に守って、

工藤艦長は己を語らず、

 

黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、

静かにこの世を去っていたのです。

 

平成20(2008)年12月7日、

フォール氏は再び来日し、

 

66年の時を経て、工藤艦長の墓前に、

念願の墓参りを遂げ、

感謝の思いを伝えました。

 

この時行われた記者会見で、

フォール氏は次のように語りました。

 

『ジャワ海で24時間も漂流していた私達を、

小さな駆逐艦で救助し、

丁重にもてなしてくれた恩は、

これまで忘れたことがない。

 

工藤艦長の墓前で

最大の謝意を捧げることができ、

感動でいっぱいだ。

 

今も工藤艦長が『雷』で

スピーチしている姿を

思い浮かべることができる。

 

『勇敢な武士道の精神を体現している人だった』

 

武士道精神を伝える、次のようなエピソードもあります。

 

昭和16(1941)年12月8日に大東亜戦争開戦。

 

その開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、

英国東洋艦隊を攻撃し、

 

最新鋭の『不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ』と、

戦艦『レパルス』を撃沈します。

 

英国の駆逐艦『エクスプレス』は、

海上に脱出した数百人の乗組員たちの

救助を始めましたが、

 

日本の航空隊は救助活動に入ると

一切妨害せず、

 

それどころか、手を振ったり親指を立てて

しっかり頼むぞ、という仕草を送りました。

 

さらに救助活動後に、この駆逐艦が

シンガポールに移行する際にも、

日本軍は上空から視認していましたが、

一切攻撃をしませんでした。

 

こうした日本海軍の武士道は、

英国海軍の将兵を感動させました。

工藤艦長の敵兵救助とは、

こうした武士道の表れであり、

決して例外的な行為だったわけではありません。

 

しかし、工藤艦長の武士道精神は、

後のイギリスで生じた反日感情を

沈静化させることに繋がりました。

 

これは、工藤艦長が現代日本に遺して下さった

大きな宝だと思えてなりません。

 

工藤艦長の偉業に心より感謝したいと思います。

 

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Youtubeにはこんな素晴らしい動画が沢山あります。

人間としての心の通い合う素晴らしい世界が、

私の心に深く刻み込まれました。

今後も、Youtubeから素晴らしい動画などを、

私のブログでシェアさせて頂き、微力ながら多くの

皆さんにもYoutubeを楽しんで頂きたいと

思っております。

 

 

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