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ポーランドへの架け橋【国境を超えた人間愛に感動】

読了までの目安時間:約 31分

 


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ポーランドへの架け橋

【国境を超えた人間愛に感動】

 

 

 

 

『シベリアからの奇跡の救出劇』

 

『桜咲く国』がつないだ765人の命

 

ポーランド孤児を救った日本赤十字社

 

 

20年以上前になるんですけども、

阪神淡路大震災1995年だったですかね。

 

その翌年1996年なんですけれども、

その阪神淡路大震災で被災して孤児になってしまった

子供達30名を、実はポーランドが呼んで下さったんです。

 

しかもそれが、なんと3週間なんですね、長いでしょう。

招待された子供達っていうのは、

ポーランド各地で実は大歓迎を受けるんです。

 

この旅行の時に一人の日本人少年が、

日本人の小人の少年です。

 

片時もリュックを背中から離さない。 

 

で、背を押したようにポーランドの老人がですね、

どうして君はリュック話さないのって聞いたんだそうです。

 

そうしたところ、震災で一瞬のうちに親も兄弟もなくして、

家も丸焼けになってしまった。

 

で、この少年はそう焼け跡から見つかった

家族の遺品をリュックに詰めていた。

 

 

婦人はですね、これを聞いて不憫で

涙が止まらなかったそうですね。

 

で、この3週間の日程の最後の日なんですけれども、

震災孤児が帰国日本に帰国をするお別れのパーティーがありまして、

この時に4人のポーランドのご老人がやってきたんだそうです。

 

4人ともかつてシベリアでやっぱり同じ孤児だった方々。

 

常にご高齢で歩行もままならない。

 

それでも、ご老人達は75年前の

自分たちを思い出させる

かわいそうな日本の子供達が、

 

ポーランドに来てくれたからには、

是非、彼らにシベリア孤児の

救済の話を聞かせたい、

 

こう言ってやって来られたんだそうです。

 

そして4人のおじいちゃんおばあちゃん達は、

涙ながらにバラの花を震災孤児一人ひとりに手渡した。

 

会場からは万雷の拍手があったそうです。

 

で、今日話しするのはその75年前に

何があったのかというお話になります。

 

75年前シベリアには多くのポーランド人が生活していました。

 

当時ポーランドは帝政ロシアの支配下に置かれていました。

 

ロシアの圧政に立ち向かうポーランド人たちは、

自由と独立を求めて何度も戦いました。

 

しかし、これらの蜂起はすべて失敗に終わり、

生き残った者たちはシベリアに送られ、過酷な環境の中、

シベリア鉄道建設などの労働をさせられていました。

 

彼らを慕ってその家族や恋人も

シベリアにやって来て、

一緒に生活をしていました。

 

 第1次世界大戦が終わった1918年、

ポーランドは悲願の独立を果たします。

 

しかしロシア国内は、ロシア革命の真っ只中で、

各地で混乱を極めていました。

 

更に、社会主義国家への移行を目指す

ロシア革命の影響が、

自国に及ばないようにするため、日本、イギリス、

アメリカ、フランス、イタリアなど、

連合軍がシベリアに軍隊を送り込みます。

 

シベリア出兵です。 

これによりシベリアでは内戦と干渉戦が

同時に進行する複雑な事態となりました。

 

シベリアにいたポーランド人たちは、

義勇兵を募り、赤軍と戦い、戦死した者たちも、

また、避難民となった者たちは行き場を失い、

飢餓と疫病で次次と倒れて行きました。

 

こうした同胞の窮状を見兼ねて、

ウラジオストクにいたポーランド人たちは、

ポーランド救済委員会を設立しました。

 

元々あの愛国者であって、

ポーランド独立をして行こうとする人達っていうのは、

非常に知的レベルの高い人達だったんですね。

 

ですから、お父さんもお母さんも非常に優秀な人達。

その子供達ですから、子供達もやっぱり、とっても優秀なんです。

その優秀な子供達がシベリアに、そのまま置き去りにされた。

 

この子供たちを、何とかしないといけないと言う事になりまして、

せめて、この子供達だけでも生きて、祖国に、

祖国とは新しくできたポーランドです。

 

そこに送り届けたいと言う事で、大正8年の9月に、

ウラジオストック在住のポーランド人たちがですね、

ポーランド救済委員会って言うのを作るんですね。

 

子供達を何とかして組織祖国に送り返そうと、

ウラジオストックですよ、太平洋側ですよ、

そっから地球の反対側のヨーロッパに

何とかして送り返そうということです。

 

まあ、その為にあっちこっちに資金を何とか面倒見て貰えないかと言う事で

声かけるんですけれども、とにかく自分たちにはまずお金がないわけですよね、

 

自分たちの抑留者ですから、会員を募って、

今で言ったらカンパみたいなことを

お願いするわけですけれども、

でもみんな本貧しいわけですよ。

 

それに抑留者ばっかりですから、

全然そのお金が集まらない。

 

子供たちを祖国に送り返すこともできないし、

送り返しても向こうで面倒見てもらうのに必要な

資金というものを提供することができない。

 

そもそも食い物すら無い状態であったわけです。

 

さらに大正9年の春になりますと、今度はですね、

ポーランドも新しくできたポーランドと

新しくできたソ連との間で戦争が起こります。

 

こうなってきますと孤児たちのシベリア鉄道で

送り返してやることは、完全に不可能な状態になる。

 

で、ポーランド93委員会のメンバーっていうのは、

欧米諸国に子供達をなんとか引き取ってもらえないか、

ということで、それぞれ手紙を書いて送ってですね、

なんとか助けて欲しいって運動するわけです。

 

けれども、出来たばかりのソ連というのは、

本当に、当時はまだソ連は国家として見做されてないんですよ。

 

国家として承認されてないのですよ。

 

ロシア革命で帝政ロシアを倒した悪い奴らが居る国なんですね。

 

その国のやってることに、下手にチョッカイ出して

乱暴者が自分の国にやって来る。

 

とにかく陸続きですから、

ヨーロッパというところは、

それで自分の国の人々が被害に遭うと、

やっぱり怖い。

 

まして、ソ連を丸ごと敵にすることは、

それが戦争やってるポーランド孤児を

引き取るということは、

ポーランドに味方するということなのです。

 

これは本当に誤解することが多いんですけれども、

中立っていうのは戦争のドンパチに

参加したかったなら中立ではないんですね。

 

どっちかの子供を助けたっていうだけでも

中立じゃなくなっちゃうんです。

 

敵だと言う事になっちゃうんです。

 

だからヨーロッパの諸国は警戒しましたね、

孤児たちを引き取ることは出来ないって回答する訳です。

 

救済委員会のメンバーは、そうなってきますとどうしようもないと。

 

で、窮余の一策として彼らが選択したのが、

ウラジオストクから日本海を隔てた

反対側にあります日本だったんです。

 

で、日本の政府に対して援助の要請をする。

 

この時救済裁委員会の会長(アンナ・ビエルケヴィッチ)

女性だったそうなんですけれども、

 

満州が関東軍、つまり日本陸軍ですね、

この協力を得まして大正9年6月に来日するんです。

 

来日する費用はですね、

ちゃんと陸軍が全額面倒見ているんです。

 

で 外務省を訪れて、シベリアの孤児たちの

惨状を訴えて援助を要請する。

 

応対をしたのは外交官の武者小路公共、

彼はビエルケヴィッチ会長の話を聞き、

全てを文章にして外務大臣宛に

提出することをアドバイスしました。

 

当時日本はポーランド独立の承認を行い、

正式に国交が樹立していたものの、

外交官の交換もまだ行っていない時でした。

 

しかし ビエルケヴィッチ会長の嘆願は、

外務省を通じて日本赤十字社にもたらされます。

 

日本赤十字社は早速協議を行いました。

 

そして、原敬内閣陸軍大臣・田中義一と

海軍大臣・加藤友三郎の認可を受けたうえで、

日本赤十字社社長に石黒忠悳は、

外務大臣内田康哉を伝えました。

 

『本件は国交上並びに人道上まことに重要な事件で

 救援の必要があるため本社において

 児童たちを収容して給養いたします』

 

日本赤十字社は、孤児たちを救済することを決定したのです。

 

それはビエルケヴィッチ会長が来日して、

わずか17日の異例の速さの決断でした。

 

日本陸軍はシベリア疾病中の帝国陸軍支援を得て、

決定からわずか2週間後には動き出す。

 

その日その日のうちに56名の孤児、

第一陣がウラジオストックを経由して、

敦賀経由で東京に到着します。

 

それから翌大正10年7月までに、

都合5回に分けて375名のポーランド孤児を、

日本に引き取っています。

 

さらに大正11年の夏には

第二次救済事業というのが行われまして、

この時には3回に分けて都合390名、

 

最初の第一陣と合わせます合計で

765名のポーランド孤児を

日本は引き受けました。

 

そして、その時の孤児っていうのはですね

栄養失調なんですよ、

ろくに食べてないから体ガリガリなんです。

 

で、その子供が着るものもない、

その子供達に病気の治療や静養をちゃんと与えて、

 

十分に健康を回復させた上で、

第一陣はアメリカ経由で、

そして第2陣は日本船によって

直接祖国ポーランドに繰り返してあげた。

 

この時に、日本に到着したポーランド孤児の回想があるんです。

 

ウラジオストックから敦賀に到着すると

いい服は全て熱湯消毒されました。

 

これにはシラミがいっぱいついてるんですね、

熱湯消毒されました。

 

そのあと支給された、浴衣・ユカタですね。

これの袖に、飴やお菓子類をたっぷり入れてもらった。

とても感激しました。

 

特別に痩せていた女の子は、

日本人のお医者さんが心配して、

毎日1錠飲むようにと言うことで、

特別に栄養剤送りました。

 

この栄養剤がものすごく美味しかったんで、

一晩で仲間たちで前部食べられてしまった。

 

到着したポーランド孤児たちは、

日本国民の多大な関心と同情を集めて、

そしてこの孤児たちのためにと言う事に、

日本国内ではですね、無料で歯医者さんが

子供たちの歯の治療してあげる、

あるいは床屋さんが全部タダで

子供達の髪を刈ってあげる。

 

また、その子供たちのために、

音楽隊、学生たちは、音楽隊を組織して慰問をする。

 

そういうことが、もういっぱい行われる。

 

事前の舞台と、あー言う事かですね、

その子供たちを招待するなんてこともありました。

 

それだけではなくて、

他にも個人で慰問品を持ち寄る人々、

寄付金、お金を出しましょうという人達が

日本国内から後を絶たなかったそうですね。 

 

大正時代のことです。

 

腸チフスにかかってしまった子供がいたんですね。

 

日本の若い看護婦さんが必死に、

もう本当に寝ずに看病してくれたそうです。

 

その子供のために。

けれどもその看護婦さんは、

腸チフスが感染してしまいまして、

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で、殉職してしまわれました。

 

看護婦の名前は『松沢ふみ23歳』の彼女は、

昼夜の別なく病にかかった子供の看病にあたり、

周りがどれだけ止めても休もうとしませんでした。

 

人は誰でも自分の子供や弟や妹が病に倒れたら、

己が身を犠牲にしても助けようとします。

 

けれどもこの子達には、

両親も兄弟姉妹もいないのです。

 

誰かがその代わりにならなければいけません。

 

『私は決めたのです。 この子達の姉になると』

 

子供は奇跡的に一命をとりとめました。

 

しかし『ふみ』は腸チフスが原因で殉職してしまいます。

 

 

『ふみ』は、医者がもうこの子は

助からないかもしれない、という女の子を、

どうせ死ぬなら私の手の中で

死なせてあげようと言って、

毎晩就寝の時に抱き寄せて、

毎日添い寝しました。

 

彼女の自己犠牲の精神は、

自分と引き換えに子供の命を救ったのでした。

 

大正10年になりますけれども、4月の6日にですね、

赤十字活動を熱心に支援されていた『貞明皇后』

このお方は『大正天皇のお后様』ですね。

この方も日赤本社病院で孤児たちに

久しく席巻されました。

 

『皇后陛下』は可憐な3歳のお子様をですね、

お傍に召されてその後も幾度も眺めながら

健やかに育つようにとおっしゃられたそうです。

 

こうして日本の手厚い保護によって、

到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていた

シベリアの孤児たちが、急速に元気を取り戻していった。

 

日本の出発前には各自一人ひとりに、全員にですね、

新しい洋服が、それも、しかも、みんなのサイズ合わせて、

これが新調されて贈られました。

 

そして航海中の寒さ、当時は船便ですからね、

寒さを考慮して、全員に毛糸のチョッキ。

 

これはの向こうの民族衣装を模した形ですけれども、

これが支給されました。

 

そして多くの人々が子供達に、

それ以外の衣服やあるいはオモチャなんかも

贈り物として届けてくれたそうです。

 

横浜港から祖国に向けて出航する際に、

幼い孤児達は親身になって世話をしてくれた、

日本人の保母さんや関係者の人達、

孤児達に別れを惜しんで、乗船することを泣いて嫌がったそうです。

 

埠頭の孤児たちは、覚えたての日本語で『ありがとう』って言う日本語を、

これを繰り返して『泣きながら君が代を歌った』。

 

そして日本人に対する感謝の気持ちを表してくれたそうです。

 

 

神戸港からの出向では児童一人ひとりに、

バナナと記念のお菓子が配られました。

 

大勢の人達は子供達の幸せを祈りながら、

涙ながらに船が見えなくなるまで、

ずっと埠頭で手を振って見送ってくれたそうです。

 

子供達を祖国に送り届けた日本の船長は、

毎晩ベッドを見て回って一人ひとりの毛布を

首までチャンとかけてあげて、

 

子供達の頭を撫でて熱が出ていないか、

心配してくれていたそうです。

 

その船長さんの船の中での、

その手の温かさが忘れられないと、

孤児が残しが回想をしています。

 

 

こうしてね、祖国に戻った孤児たちの中に、

イエジ・ストシャウコフスキと言う少年がいました。

 

彼はね、17歳の青年となった昭和3年、

シベリア孤児の組織として

極東青年会と言う組織を作るんです。

 

で、自ら会長に就任するんですね。

 

会は順調にどんどん人数が増えていくんです。

 

そして国内9都市に支部が設けられて、

1930年代にはですね、なんと会員数が640名を

超える大きな団体になって行く。

 

基本的に孤児の集団なんですね。

 

で、昭和14年なんですけれども、

ナチスドイツがポーランドに侵攻してきます。

 

第二次世界対戦では、この昭和14年1939年の、

ナチスドイツのポーランド侵攻が、

実は世界大戦の引き金になってますよね。

 

 

このポーランド侵攻があった時に、

イエジ青年はですね、

極東青年会の幹部が緊急招集しました。

 

何が何でもナチスドイツに戦うという

レジスタンスの運動参加を決定をする訳です。

 

そして彼の組織はシベリア孤児の他、

彼らが面倒見てきた他の孤児たち、

さらに今回の戦争で今回のドイツの侵攻によってですね、

 

親を失った戦災孤児たちも次から次へと人数を増やして、

組織はやがて1万数千名の巨大な団体になっていきます。

 

彼はワルシャワを拠点として地下活動を展開するんです。

ワルシャワを拠点。

 

 当然これにナチスドイツは目をつけます。

レジスタンスですね。 

潰さなければならない。

 

ある日、イエジ青年が隠れ蓑として使っていた孤児院に、

多数のドイツ兵が銃を持って入ってきました。 強制操作です。

 

ここはレジスタンスの拠点ではないか、孤児院ですよ。

 

この時にですね、実は急報を受けて駆けつけた外国人がいます。

 

ポーランド人から見て外国人です、日本人ですね、

日本の大使館職員でした。書記官でした。

 

この日本人の書記官は武装したナチスの兵隊さんたちを前にして、

この孤児は、日本帝国の大使館が保護している。

 

孤児たちはポーランド人であって

ポーランドに住んでるけれども、

日本の大使館が保護している孤児である。

 

そう言って孤児たちを振り向くとですね、

君たち、このドイツ人達に日本の歌を聞かせてやってくれ、

と言ったそうです。

 

イエジ青年達は日本語で、

日本の国家であります『君が代』や

『愛国行進曲』なんかを大合唱したそうです。

 

ドイツの兵隊さんたちは、あっけに取られて、

『大変失礼を致しました』と言って

直ちに引き上げていったと。

 

これによってイエジ青年と孤児たちは、

全員一命を取り留めています。

 

この当時、日本というのは三国同盟下にあった。 

 

で、そういう面から、そのナチスドイツが

日本に対して一目置かなければいけない状態にあったことが

原因だという風によく言われます。

 

ただもう一つあります、

当時の大日本帝国っていうのは、

世界最大の帝国外伝はイギリス、

 

世界で2番目に大きな帝国は実は日本で、

日本は世界で二番目に大きい国です。

 

東アジアほぼ全域が日本の影響下にある、

太平洋半分が日本の影響下にある。

 

地球上の支配面積、こうやっても領海といいますけれども、

領海を支配を含む面績では世界最大、

 

陸地の面積で言うと世界第2位、

まさに日本の巨大な大帝国ですね。

 

だからドイツとしても、

日本に対して一目置くしかなかった。

 

この時にね、ポーランド極東委員会の

当時の副会長でありました『ユゼフ・ヤクブケヴッチ』さん

と言う方がですね、

 

『ポーランド国民の感激、我らは日本の恩を忘れない』

 

と題した礼状を送ってくださったそうです。

 

この礼状の中の文章をちょっと読み上げたいと思います。

 

『日本人はわがポーランドとは、全く縁故の遠い異人種である、

日本は我がポーランドとは全く異なる、地球の反対側に存在する国である、

しかも我が不運なるポーランドの児童に、かくも深く同情を寄せ、

心より憐憫の情を表してくれた、我々ポーランド人は肝に銘じて、

その恩を忘れることはない、ポーランド国民もまた高尚な国民であるがゆえに、

我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを、日本人に告げたい。 

ここにポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、

最も深い感恩、最も暖かい友情、愛情を持っていることをお伝えしたい』 

 

このように述べてくれたそうです。

 

 

1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災の直後、

駐日ポーランド大使館のスタニスワフフィリペックは、

被災した児童をポーランドに招待しました。

 

阪神淡路大震災の被災児童と、

かつてのシベリア孤児との対面が実現したのは、

1996年の夏のことでした。

 

彼らはかつて日本人からもらった暖かな心を、

いま被災して悲しんでいる日本の子どもたちに伝えたいと、

駆けつけてくれました。

 

彼らは自分が体験した日本人からの親切や行為を、

日本の児童たちに語ると、最後に元孤児の皆さんから、

被災児童にバラの花が一輪ずつ手渡され、

集まった人々から万雷の拍手が沸き起こりました。

 

その時講師の皆さんの目には涙が光っていました。

 

彼らはこのようにして75年前の日本人の善意も、

日本の子供たちに返したのでした。

 

その後も2011年の東日本大震災では、

『絆の架け橋プロジェクト』として、

被災児童30名をポーランドに招待しました。

 

さらに甚大な被害を受けた宮城県気仙沼市の幼稚園。

 

寄付で再建するなどの支援をしたのです。

 

シベリア孤児から生まれた両国の絆は、

今もお互いを支えあい両国を強く結びつけています。

 

歴史的には日本とポーランドは

様々な分野で交流してたんですね。

 

あの軍隊的な協力もありましたし、

文化交流とか経済の面で、

特にポーランドは日本から色々手伝って

いただいてるんですけれども、

様々な分野でまた一緒に何かできればいいなと思います。

 

 

ポーランドのでは日本の文化とか

凄くよく知られてまして、

日本のことは好きがれてるんですね、

 

それでも同じように日本でもポーランドのこと、

よりよく知ってもらいたいと思いますし、

文化や音楽をはじめ、様々な分野で交流が

深まることできればいいなと思います。

 

日本とポーランドの歴史は、

せっかく100年まで至ってるということで、

やはり次の100年も手をつないで

一緒に歩んでいきたいと思います。

 

 

極東青年会が栄えていた1930年後半、

同時ポーランド訪れた子爵・三島通陽はこう記しています。

 

思えば十数年前のシベリア出兵のわが軍人さん達と、

当時の日本赤十字社の人々は、

本当に良いことをされたものだと思う。

 

これらの人々は、決してこんな結果を

予期してされたのではあるまい。

 

ただ哀れな孤児たちを見て、

純真な惻隠の心から孤児たちに

温かい手を差し伸べたのだろう。

 

そこが日本精神だ、そこが尊いのである。

 

 

惻隠の心とは他の人の不幸や危機に対して、

自分のことのように心を痛め、

思いやる心のことです。

 

私たちの先人たちは、

海の向こうの他国のことであるにも関わらず、

危機に瀕した子供たちを救い出し、

自分の子供のように愛し、彼らを祖国に帰還させました。

 

現代に戻って日本の周りを見渡すと、

今も危機に瀕している民族や、人々がたくさんいます。

 

私たちはそのような人たちに対し、

我々の先人たちと同じ心を持って、

手を差し伸べることが大切ではないでしょうか

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=LQY4DLOXuSo

 

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★先人の故郷を乗り越えた人間愛に唯々感動し涙が止まりませんでした。

この様な素晴らしい実話は、時代は変われど後世に伝えて、世界が

人間愛に満ちたならば、戦争など有り得ません。

微力ながら、豊かな人間愛に溢れる世界に向けて発信したいので

シエアさせて頂きました。

 

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