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☆ポーランドからの恩返し 「日本の皇后が私を抱きしめてくれた」

読了までの目安時間:約 19分

 


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ポーランドからの恩返し

 

「日本の皇后私を抱きしめてくれた

 

 

 

平成天皇皇后陛下の世界から

 

日本の信頼を得たストーリーをご紹介いたします。

 

 

これはYouTubeの多くの感動的動画を

 

楽しんでいた中で巡り合えた実話であり、

 

原作者が世界に拡散を希望されております。

 

 

私もこの実話は、国境を超え、人種を超え、

 

世界を感動させた真の人間としての心が広さ、

 

人情の奥深さと恩義の尊さなど、

 

この上ない素晴らしい人間世界に

 

誘いこんでくれたこの上ない熱い実話であります。

 

 

私も世界に広めたいと強く思い、

 

シェアさせて頂きブログに

 

投稿致します。

 

 

この素晴らしい人情物語を

 

心底からお楽しみ戴けることでしょう。

 

 

それでは、ハンカチを手元に緞帳を開けましょう。

 

 

海外での先人たちの輝かしい功績や、

 

あまり語られることのない諸外国との

 

感動的な交流秘話は沢山あります。

 

 

 

1999(平成11)年8月、 ポーランドから

 

「ジエチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」来日しました。

 

 

合唱団は,88歳のヘンリク.・サドスキさんからの

 

  次のようなメッセージを携えていました。

 

 

 

「20世紀の初め、ポーランドの孤児が

 

     日本政府によって救われました。

 

 

シベリアにいたポーランドの子供は、

 

さまざまな劣悪な条件にありました。

 

その恐ろしいところから

 

    救い出してくれたことを忘れません。

 

 

日本のみなさん、本当にありがとう。」

 

 

サドスキさんはさらに、

 

  「一番大事にしている物を  

 

       ぜひ皇室の方に渡してほしい」と、

 

救出当時の写真を託しました。

 

 

 

「孤児収容所を慰問した

 

     皇后陛下(貞明皇后)

 

抱きしめてもらったことが生涯忘れられない」と、

 

話したといいます。

 

 

 

2002(平成14)年、天皇皇后陛下

 

その老齢になった孤児達が対面する

 

   感動的な場面がありました。

 

 

 

貞明皇后に抱かれ励ましてもらった

 

記憶の有る元孤児の一人、

 

86歳のアントニオ・リーロさんは、

 

美智子皇后の手をずっと

 

握りしめていました。

 

 

 

80年以上の時空を超えて、

 

かすかに覚えている貞明皇后の手の感触、

 

胸のぬくもりを確かめているかのようで、

 

時間が止まったかのように感じられました。

 

 

年老いたポーランドの孤児は

 

静かに「君が代」の一説を口ずさみました。

 

 

1919年、ポーランドはロシア革命により

 

   独立を果たしましたが、

 

シベリアのウラジオストクには

 

10数万人のポーランド人が

 

取り残されていました。

 

 

 

特に親を失った子供たちは悲惨でした。

 

 

「せめて子供たちだけでも生かして

 

     祖国に送り届けたい!!

 

 

その年の9月に

 

「ポーランド救済委員会」が

 

組織されるものの、翌20年春には、

 

ロシア・ポーランド両国は戦闘状態に入り、

 

孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは

 

不可能になってしまいます。

 

 

救済委員会は

 

   欧米諸国に救助を求めましたが、

 

ことごとく拒否され、窮余の一策として

 

   日本政府に救助を要請することにし、

    

      外務省を訪れて救助を懇願しました。

 

 

 

外務省は日本赤十字社に働きかけ、

 

わずか17日後にはシベリア孤児救助が

決定されました。

 

 

独立間もないポーランドとは、

 

まだ外交官の交換もしていない上、

 

祖国と分断された在シベリア民間人の

 

費用と手間がかかることにもかかわらず、

 

驚くべき即断でした。

 

 

さらに,

 

 救助決定のわずか2週間後には、

 

56名の孤児の第一陣が東京に到着しました。

 

 

この後、1年間5回にわたり、

 

  375人が日本へ渡ることとなります。

 

この時の様子をある孤児が

 

  回想しています。

 

 

「記憶に強くのこっているのは、

 

ウラジオストクから敦賀に到着すると、

 

衣服はすべて熱湯消毒されたこと、

 

支給された浴衣の袖に、

 

飴や菓子類をたっぷり入れて貰って

 

大変感激したこと、

 

特別に痩せていた女の子は、

 

日本人の医師が心配して、

 

毎日1錠飲むようにと特別に栄養剤をくれたが、

 

大変おいしかったのでしょう、

 

一晩で仲間に全部食べられてしまって

 

  悔しかったこと・・・。」

 

 

日本全国に孤児たちのことが報じられ、

 

   当時の日本国民は一斉に寄付金、

 

玩具、お菓子などが送られ、

 

歯科治療、理髪、慰問演奏、慰安会などが、

 

ボランティアによって行われました。

 

 

 

 

1921(大正10)年4月6日には、

 

赤十字活動を熱心に後援されてきた

 

貞明皇后(大正天皇の后)も、

 

日赤本社病院で孤児たちがを親しく接見され、

 

その中のまだ小さな3歳の女の子をお傍に召されて、

 

その頭を幾度も撫でながら、

 

「健やかに育つように」と話されました。

 

 

 

このような手厚い保護により、

 

到着時には顔面蒼白で見るも哀れに

 

痩せこけていたシベリア孤児たちは、

 

急速に元気を取り戻しました。

 

 

横浜港から、祖国へ向けて出発知る際、

 

幼い孤児たちは、親身になって世話をした

 

日本人の保母さんと別れを悲しみ、

 

乗船することを泣いて崩れるほど嫌がりました。

 

 

孤児たちは「アリガトウ」を繰り返し、

 

埠頭で「君が代」を斉唱して、

 

幼い感謝の気持ちを表しました。

 

 

神戸港からの出発も同様で、

 

子供たち一人ひとりに

 

バナナと記念の菓子が配られ、

 

大勢の見送りの人たちは、

 

子供たちの幸せを祈りながら、

 

涙を流しながらに船が見えなくなるまで

 

手を振って別れを惜しみました。

 

 

 

子供たちを故国に送り届けた

 

日本船の船長は、毎晩ベッドを見て回り、

 

一人一人毛布を首まで掛けては、

 

子供たちの頭を撫でたり

 

熱が出ていないかどうかなどを

 

確かめていたといいます。

 

 

「その手の温かさを忘れない」と、

 

一人の孤児は回想しています。

 

 

1995年10月、8名の元孤児たちが

 

ポーランド大使公邸に招待されました。」

 

 

皆80歳以上の高齢で、

 

体の衰弱が激しい1人のご婦人は、

 

お孫さんに付き添われて

 

やっとのことで公邸にたどりつきました。

 

 

「私は生きている間にもう一度

 

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日本に行くことが生涯の夢でした。

 

 

そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。

 

しかしもうそれは叶えられません。

 

 

今回、大使から公邸にお招きをいただいたと

 

聞いたとき這ってでも、伺いたいと思いました。

 

 

 

何故って、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。

 

今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちを

 

お伝えできれば、もう思い残すことはありません。と、

 

その老婦人は感涙に咽び泣きました。

 

 

孤児たちは70年以上も前の、

 

日本の出来事などを

よく覚えていました。

 

 

 

日本の絵はがきを貼ったアルバムと、

見知らぬ日本人から送られた扇を、

今まで肌身離さずに持っていた人、

 

日本を離れる時に送られた布地の帽子を大事にしていた人、

聖母マリア像の描かれたお守り札を保管していた人など、

それが日本の思い出を大切な宝物として持っていました。

 

 

シベリア孤児765名の救済の話は、

ポーランド国内で語り継がれており、

 

政府や関係者から沢山の感謝状が届けられ、

途絶えることはありませんでした。

 

 

 

その中のひとつをご紹介します。

 

「ポーランドの子供たちの様子を時々見に来てくれた

日本人の裕福な子供がいた。

 

孤児たちの服装の惨めなのを見て、

自分の着ていた最もきれいな衣服を

脱いで渡そうとしたり、髪に結ったリボン、

櫛、飾り帯、指輪までもを、

ポーランドの子供たちにあげようとしていた。

 

 

しかも一度や二度ではない。

 

そんなことがしばしばあった。」

 

 

「私たちはいつまでも恩を忘れない

 

国民で有ることを日本人に告げたい。

 

 

日本人がポーランドの」

 

児童のために尽くしてくれたことは、

 

ポーランドはもとより

米国でも広く知られている。

 

 

ここに、ポーランド国民は日本に対し、

 

最も深い尊敬、

最も深い感銘

最も深い感恩、

最も温かき友情、

愛情を持っていることをお伝えしたい。」

 

 

 

そして、正にそれを証明する出来事が

1995年に起こりました。

 

 

それは、阪神・淡路大震災です。

 

 

その時、被災児30名がポーランドに招かれ、

3週間、各地で歓待を受けました。

 

 

 

世話をした1人のポーランド夫人はこう言いました。

 

「一人の男の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、

理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、

家も丸焼けになってしまったという。

 

焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、

片時も手放さないのだと知った時には、

不憫で涙が止まらなかった.」

 

 

 

震災孤児が帰国するお別れパーテイーには、

4名のシベリア孤児が出席しました。

 

 

歩行もままならない高齢者ばかりでしたが、

 

「75年前の自分たちを思い出させるような、

 

可愛そうな日本の子供たちがポーランドに

来たからには、是非、日本の子供たちに

シベリア孤児救済の話を聞かせたい」と、

無理をおして参加されました。

 

 

4名のシベリア孤児たちが涙ながらに、

震災孤児一人ひとりに薔薇の花を手渡した時には


会場は万雷の拍手と涙に包まれました。

 

 

 

75年前の我々の父祖が、

 

「地球の反対側」から来たシベリア孤児たちを

慈愛に満ちた大和心に、

 

恩を決して忘れないポーランド魂が

お返しをした瞬間なのでした。

 

 

 

ぜひ周りの方に共有・拡散していただき、

少しでも多くの方の目に届けば幸いです。

 

 

 

私は、この世界人類において、

この上ない真の愛情あふれる実話に感動すると共に、

筆者の趣旨に賛同し、ブログで掲載させて頂きました。

 

 

この実話は、日本とポーランドだけの実話だけに終わらせる事ではなく、

 

世界の国々の方々が、平和な世界に向けての一例になって同様以上に深い心が通う

 

世界に成って欲しいし、この上なく願ってやみません。

 

 

この実話に出会えて心から感謝申し上げます。 

 

ありがとうございました。

 

 

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