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ポーランドへの架け橋 (ポーランド国民の情の深さに感動!)

読了までの目安時間:約 45分

 


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ポーランドへの架け橋 

 

 

 (ポーランド国民の情の深さに感動!)

 

   歴史街道 【感動実話】

 

 

 

 

『シベリアからの奇跡の救出劇』

 

 

『桜咲く国』がつないだ765人の命

 

ポーランド孤児を救った日本赤十字社

 

20年以上前になるんですけども、

 

阪神淡路大震災1995年だったですかね。

 

 

その翌年1996年なんですけれども、

 

その阪神淡路大震災で被災して孤児になってしまった

 

子供達30数名を、実はポーランドが呼んで下さったんです。

 

 

しかもそれが、なんと3週間なんですね、長いでしょう。

 

招待された子供達っていうのは、

 

ポーランド各地で実は大歓迎を受けるんです。

 

 

この旅行の時に一人の日本人少年が、

 

片時もリュックを背中から離さない。

 

で、背を押したようにポーランドの老人がですね、

 

どうして君はリュック話さないのって聞いたんだそうです。

 

 

そうしたところ、震災で一瞬のうちに親も兄弟もなくして、

 

家も丸焼けになってしまった。

 

 

で、この少年はそう焼け跡から見つかった

 

家族の遺品をリュックに詰めていた。

 

 

婦人はですね、これを聞いて不憫で

 

涙が止まらなかったそうですね。

 

 

で、この3週間の日程の最後の日なんですけれども、

 

震災孤児が帰国日本に帰国をするお別れの

 

パーティーがありまして、

 

この時に4人のポーランドのご

 

老人がやってきたんだそうです。

 

 

4人ともかつてシベリアでやっぱり同じ孤児だった方々、

 

常にご高齢で歩行もままならない、

 

それでも、ご老人達は75年前の自分たちを

 

思い出させる可愛そうな日本の子供達が、

 

ポーランドに来てくれたからには、

 

是非彼らに、シベリア孤児の救済の話を聞かせたい、

 

こう言ってやって来られたんだそうです。

 

 

そして4人のおじいちゃんおばあちゃん達は、

 

涙ながらにバラの花を震災孤児一人ひとりに手渡した。

 

 

会場からは万雷の拍手があったそうです。

 

 

で、今日お話しするのはその75年前に

 

何があったのかというお話になります。

 

 

75年前、シベリアには多くのポーランド人が生活していました。

 

 

当時ポーランドは帝政ロシアの支配下に置かれていました。

 

 

ロシアの圧政に立ち向かうポーランド人たちは、

 

自由と独立を求めて何度も戦いました。

 

 

しかし、これらの蜂起はすべて失敗に終わり、

 

生き残った者たちはシベリアに送られ、

 

過酷な環境の中、シベリア鉄道建設などの

 

労働をさせられていました。

 

 

彼らを慕ってその家族や恋人も

 

シベリアにやって来て、

 

一緒に生活をしていました。

 

 

第1次世界大戦が終わった1918年、

 

ポーランドは悲願の独立を果たします。

 

 

しかし、ロシア国内は、ロシア革命の真っ只中で、

 

各地で混乱を極めていました。

 

 

更に、社会主義国家への移行を目指すロシア革命の影響が、

 

自国に及ばないようにするため、

 

日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアなど、

 

連合軍がシベリアに軍隊を送り込みます。

 

 

シベリア出兵です。

 

 

これによりシベリアでは内戦と干渉戦が

 

同時に進行する複雑な事態となりました。

 

 

シベリアにいたポーランド人たちは、

 

義勇兵を募り、赤軍と戦い、戦死した者たちもおり、

 

また、避難民となった者たちは行き場を失い、

 

飢餓と疫病で次々と倒れて行きました。

 

 

こうした同胞の窮状を見兼ねて、

 

ウラジオストクにいたポーランドの人たちは、

 

ポーランド救済委員会を設立しました。

 

 

元々あの愛国者であって、

 

ポーランド独立をして行こうとする人達っていうのは、

 

非常に知的レベルの高い人達だったんですね。

 

ですから、お父さんもお母さんも非常に優秀な人達。

 

 

その子供達ですから、子供達もやっぱり、とっても優秀なんです。

 

 

その優秀な子供達がシベリアに、そのまま置き去りにされた。

 

 

なんとかこの子供たちを、

 

何とかしないといけないと言う事になりまして、

 

せめて、この子供達だけでも生きて、

 

祖国に、祖国とは新しくできたポーランドです。

 

 

そこに送り届けたいと言う事で、

 

大正8年の9月に、ウラジオストック在住の

 

ポーランド人たちがですね、

 

ポーランド救済委員会って言うのを作るんです。

 

 

子供達を何とかして祖国に送り返そうと

 

ウラジオストックですよ、太平洋側ですよ

 

そっから地球の反対側のヨーロッパまで

 

何とかして送り返したってことですね。

 

 

そのためあっちこっち資金を何とか面倒見てもらえないかと

 

いうことで、声かけるんですけれども、

 

自分たちにはまずお金がないわけですよね。

 

 

自分たちの抑留者ですから。 

 

で、会員を募って

 

いまならカンパみたいなことを

 

お願いするわけですけれども、

 

でもみんな貧しいわけですよ。

 

それ抑留者ばっかりですから、

 

全然そのお金が集まらない。

 

 

 

子供たちを祖国に送り返すこともできないし、

 

送り返したとしても、向こうで面倒見てもらうのに

 

必要な資金というものを提供することができない。

 

 

食い物すらないという状態であったわけです。

 

 

さらに大正9年の春になりますと、

 

今度はですね、新しくできたポーランドと

 

新しくできたソ連との間で戦争が起こります。

 

 

こうなってきますと孤児たちのシベリア鉄道で

 

送り返してことは完全に不可能な状態になる。

 

 

で、ポーランド93委員会のメンバーっていうのは、

 

欧米諸国に子供達をなんとか引き取ってもらえないか、

 

ということで、それぞれ手紙を書いて送ってですが、

 

なんとか助けて欲しいって運動するわけです。

 

 

けれども出来たばかりのソ連というのは、

 

本当に、当時はまだソ連いうのは

 

国家としてみなされてないんですよ。

 

 

国家として承認されてないのですよ。

 

 

ロシア革命で帝政ロシアを倒した悪い奴らが居る国で、

 

その国のやってることに下手にちょっかい出して

 

乱暴ものが自分の国にやって来る。

 

 

 

ヨーロッパというのは陸続きですから、

 

それで自分の国の人々が被害に遭う事がやっぱり怖い。

 

ましてやですね、ソ連を丸ごと敵に回すことになって来ますと、

 

ソ連が戦争やってるポーランドの孤児を引き取るということは

 

ポーランドに味方するという意味と言う事に成るんです。

 

 

これは本当に誤解することが多いんですけれども、

 

中立っていうのは、戦争のドンパチに

 

参加しなかったら中立じゃないんですね。

 

 

どっちかの子供を助けたっていうだけでも

 

中立じゃなくなっちゃうんです。

 

 

敵だってことになっちゃうんでっす。

 

 

だからヨーロッパの諸国は警戒しましたね。

 

 

孤児たちを引き取ることは出来ないって回答をする訳です。

 

 

救済委員会のメンバーは、そうなってきますとどうしようもないと、

 

で、窮余の一策として、彼らが選択したのが、

 

ウラジオストクから日本海を隔てた、

 

反対側にあります日本だったんです。

 

 

で、日本の政府に対して援助の要請をする。

 

 

この時に仲裁委員会の会長がですね、

 

ピエルキエビッチという女性だったそうなんですけども、

 

満州に居た関東軍、つまり日本陸軍の協力を得まして、

 

大正9年6月に来日するんです。

 

 

来日する際の費用はですね、ちゃんとグループの軍が

 

全額面倒を見てるんです。

 

 

日本にやって来ます。

 

 

で、 外務省を訪れて、

 

シベリアの孤児たちの惨状を訴えて援助を要請する。

 

 

応対をしたのは外交官の武者小路公共、

 

彼はブィエルケビッチ会長の話を聞き、

 

すべてを文章にして

 

外務大臣宛に提出することをアドバイスしました。

 

 

 

当時日本はポーランド独立の承認を行い、

 

正式に国交が樹立していたものの、

 

外交官の交換もまだ行っていない時でした。

 

 

しかし ブィエルケビッチ会長の嘆願は、

 

外務省を通じて日本赤十字社にもたらされます。

 

 

日本赤十字社は、早速協議を行いました。

 

 

そして原敬内閣陸軍大臣田中義一

 

海軍大佐加藤友三郎の認可を受けたうえで、

 

日本赤十字社社長に石黒忠悳は

 

外務大臣内田康哉を伝えました。

 

 

『本件は国交上並びに人道上、

 

まことに重要な事件で

 

救済の必要があるため、

 

本社において児童たちを収容して給養いたします』

 

 

日本赤十字社は孤児たちを

 

救済することを決定したのです。

 

 

それはイエルケビッジ会長が来日して

 

わずか17日の異例の速さの決断でした。

 

 

 

日本はシベリア疾病中の帝国陸軍支援を得て、

 

決定からわずか2週間後には送り出す。

 

 

その日のうちに56名の孤児・第一陣が

 

ウラジオストックを経由して、

 

敦賀経由で東京に到着します。

 

 

それから翌、大正10年7月までに、

 

都合5回に分けて375名の

 

ポーランド孤児を日本に引き取っています。

 

 

さらに大正11年の夏には、

 

第二次救済事業というのが行われまして、

 

 

この時には3回に分けて、都合390名、

 

最初の第一陣と合わせますと、

 

合計で765名のポーランド孤児を日本は引き取りました。

 

 

 

そして、その時の孤児っていうのはですね、栄養失調なんですよ。

 

 

ろくに食べてないから体ガリガリなんです、

 

で、その子供が着るものもない。

 

 

その子供達に病気の治療や静養をちゃんと与えて、

 

十分に健康を回復させた上で、第一陣はアメリカ経由で、

 

そして第2陣は日本船によって、

 

直接、祖国ポーランドに送り返してあげた。

 

 

この時にね、日本に到着したポーランド孤児の回想があるんです。

 

 

ウラジオストックから敦賀に到着すると、

 

衣服はすべて熱湯消毒されました。

 

 

これらのシラミがいっぱいついてるんですね、

 

熱湯消毒されました。

 

 

その後、支給された浴衣・ユカタにね、

 

これの袖に飴やお菓子類をたっぷり入れてもらった。

 

 

とても感激しました。

 

 

特別に痩せていた女の子は、

 

日本人のお医者さんが心配して、

 

毎日1錠飲むようにということで、

 

特別に栄養剤送りました。

 

 

 

この栄養剤がものすごく美味しかったんで、

 

一晩で仲間たちに全部食べられてしまったって、

 

到着したポーランド孤児たちは

 

日本国民の多大な関心と同情を集めて、

 

そして、この孤児たちのためにってことで、

 

日本国内ではですね、無料で歯医者さんが、

 

子供たちの歯の治療してあげる。

 

 

あるいは、床屋さんが全部タダで子供達の髪を刈ってあげる。

 

また、子供たちのために、音楽隊学生たちは、

 

音楽隊を組織して慰問をする。

 

 

そういうことがもういっぱい行われる。

 

 

事前の舞台とは別に子供たちを招待するなんてこともありました。

 

 

それだけではなくて、他にも個人で慰問品を持ち寄る人々。

 

 

寄付金・お金を出しましょうと云う人たちが、

 

日本国内なら後を絶たなかったそうですね。

 

 

 

大正時代のことです。

 

腸チフスにかかってしまった子供がいたんですね。

 

日本の若い看護婦さんが必死に、

 

もう、本当に寝ずに看病してくれたそうです。

 

 

その子供のために…。

 

 

けれども、その看護婦さんは

 

腸チフスが感染してしまいまして、

 

殉職してしまわれました。

 

 

看護婦の名前は『松沢ふみ』

 

 

23歳の彼女は、昼夜の別なく、

 

病にかかった子供の看病にあたり、

 

周りがどれだけ止めても休もうとしませんでした。

 

 

『人は誰でも自分の子供や弟や妹が、

 

病に倒れたら、己が身を犠牲にしても

 

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助けようとします』

 

 

『けれども、この子たちには

 

両親も兄弟姉妹もいないのです。

 

誰かがその代わりにならなければいけません』

 

 

『私は決め この子達の姉になると』

 

 

子供は奇跡的に一命をとりとめました。

 

 

 

しかし、『ふみ』は、腸チフスが原因で殉職してしまいます。

 

 

『ふみ』は、医者がもうこの子は助からないかもしれない、

 

という女の子は、どうせ死ぬなら私の手の中で

 

死なせてあげようと言って

 

毎晩、就寝の時に抱き寄せて添い寝しました。

 

 

彼女の自己犠牲の精神は、

 

自分と引き換えに子供の命を救ったのでした。

 

 

大正10年になりますけれども4月の6日にですね、

 

赤十字活動を熱心に支援されていた『貞明皇后』

 

大正天皇のお后様ですね、

 

この方も日赤本社病院で孤児たちに親しく接見されました。

 

 

皇后陛下は、可憐な3歳のお子様ですね、

 

お側に召されて、その頭を幾度も撫でながら、

 

健やかに育つようにとおっしゃられたそうです。

 

 

こうして、日本の手厚い保護によって到着時には、

 

顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリアの孤児たちが、

 

急速に元気を取り戻して行った。

 

 

日本の出発前には、各自一人ひとりに、

 

全員にですね、新しい洋服が、それにしかも、

 

みんなサイズ合わせて、これが新調されて送られました。

 

 

そして公開中の寒さ、当時は船便ですからね、

 

寒さを考慮して全員に毛糸のチョッキ、

 

これは向こうの民族衣装を模した形ですけれども、

 

これが支給されました。

 

 

そして、多くの人々が子供達に、

 

それ以外の衣服や、あるいはおもちゃなんかも、

 

贈り物として届けてくれたそうです。

 

 

横浜港から祖国に向けて出航する際に、

 

幼い孤児たちは、親身になって世話をしてくれた

 

日本人の保母さんや関係者の人達、

 

こういう人たちに別れを惜しんで、

 

乗船することを泣いて嫌がったそうです。

 

 

埠頭の孤児たちは、覚えた『ありがとう』っていう日本語を

 

繰り返して、泣きながら『君が代』を歌ったそうです。

 

そして、日本人に対する感謝の気持ちを表してくれたそうです。

 

 

神戸港からの出向では、児童一人ひとりに

 

バナナと記念のお菓子が配られました。

 

 

大勢の人達は子供達の幸せを祈りながら、

 

涙ながらに、船が見えなくなるまで、

 

ずっと埠頭で手を振って見送ってくれたそうです。

 

 

子供達を、祖国に送り届けた日本の船長は、

 

毎晩ベッドを見て回って、一人ひとりに毛布を

 

首までちゃんとかけてあげて、

 

子供達の頭を撫でて、熱が出ていないか

 

心配してくれていたそうです。

 

 

その船長さんの船の中での、その手の温かさが

 

忘れられないと、ひとりの孤児が回想をしています。

 

 

こうしてね、祖国に戻った孤児たちは中に、

 

イエジ・ストシャウコクフスキ という少年がいました。

 

彼はね、17歳の青年となった昭和3年、

 

シベリア孤児の組織として、極東青年会という会を作るのです。

 

 

そして自ら会長に就任するんですね。

 

 

会は順調にどんどん人数が増えていくんです。

 

 

そして国内9都市に支部が設けられて

 

1930年代にはですね、なんとか員数が

 

640名を超える大きな団体になって行くんです。

 

 

基本的に孤児の集団なんです。

 

 

昭和14年なんですけれども、

 

ナチスドイツがポーランドに侵攻してきます。

 

 

第二次世界対戦で実は、この昭和14年1939年の

 

ナチスドイツにあるポーランド侵攻が、

 

実は世界大戦の引き金になっていますよね。

 

 

このポーランド侵攻があった時に、イエジ青年はですね、

 

極東青年会の幹部が緊急招集しました。

 

何が何でもナチスドイツに戦うという

 

レジスタンスの運動参加を決定する訳です。

 

 

そして彼の組織はシベリア孤児の、

 

彼らが面倒見てきた、他の孤児たち、

 

さらに、今回の戦争で今回のドイツの侵攻によってですね、

 

親を失った戦災孤児たちも、次から次へと参加して、

 

組織がやがて1万数千名の巨大な団体になっていきます。

 

 

彼はワルシャワを拠点として地下活動を展開するんです。

 

 

当然これにナチスドイツは目をつけます。

 

 

レジスタンスですから、潰さないといけない。

 

 

ある日、イエジ青年が隠れ蓑として使っていた孤児院に、

 

 

多数のドイツ兵が銃を持って入ってきました。

 

 

強制操作です。

 

ここはレジスタンスの拠点ではないか。

 

孤児院にですよ。

 

この時にですね、実は旧法受けて駆けつけた外国人がいます。

 

 

ポーランド人から見て外国人です。

 

日本人です。 日本の大使館職員でした。 書記官でした。

 

 

日本人の書記官は、武装したナチスの兵隊さんたちを前にして、

 

この孤児院は、日本帝国の大使館の保護している。

 

孤児たちはポーランド人であって、ポーランドに住んでるけれども、

 

日本の大使館が保護している孤児である。

 

 

そう言って孤児たちを振り向くとですね、

 

君たち、このドイツ人達に日本の歌を聞かせてやってくれ、

 

と、こう言ったそうです。

 

 

イエジ青年たちは日本語で、

 

日本の国家であります『君が代』や

 

『愛国行進曲』なんかを大合唱したそうです。

 

 

ドイツの兵隊さんたちはあっけにとられて、

 

『大変失礼を致しました』と言って、

 

直ちに引き上げて行ったそうです。

 

 

これによってイエジ青年と、そこにいた孤児たちは

 

全員一命を取り留めています。

 

 

この当時の日本というのは、日・独・伊三国同盟下にあった。

 

 

そういう面から、そのナチスドイツが日本に対して

 

一目も二目も置かなければいけない状態にあったことが

 

原因だという風によく言われます。

 

 

ただもう一つあります、当時の大日本帝国というのは、

 

世界最大の帝国というのはイギリス、

 

世界で2番目に大きな帝国が、実は日本なんです。

 

 

日本は世界で二番目に大きくして、

 

東アジアほぼ全域が日本の影響下にある。

 

 

太平洋半分が日本の影響下にある。

 

 

地球上の支配面積、領海といいますけども、

 

領海を含む支配面積というのは世界最大。

 

 

陸地の入り口の面積で言うと世界第2位

 

 

まさに日本巨大な大帝国。

 

 

だからドイツとしても、日本に対しても1目置くしかなかった。

 

 

この時にね、ポーランド極東委員会の当時の副会長でありました、

 

ユゼフ・ヤクブケブィチさんという方がですね、

 

ポーランド国民の感激、

 

我らは日本の恩を忘れないと題した

 

礼状を送ってくださったそうです。

 

 

 

 

この礼状の中の文章をちょっと読み上げたいと思います。

 

 

【礼状文】

 

『日本人は、我がポーランドとは

 

全く縁故の遠い異人種である。

 

日本は我がオーランドとは全く異なる

 

地球の反対側に存在する国である。

 

 

しかも、我が不運なるポーランド孤児に、

 

かくも深く同情を寄せ、

 

心より憐憫の情を表してくれた。

 

我々ポーランド人は肝に銘じて、

 

その恩を忘れることはない。

 

 

ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、

 

我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを告げたい。

 

ここに ポーランド国民は日本に対し、

 

最も深い尊敬、

 

最も深い感銘、

 

最も深い感恩、

 

最も温かき友情、

 

愛情を持っていることをお伝えしたい。』

 

 

このように述べてくれたそうです。

 

 

 

1995年1月に起きた阪神淡路大震災の直後

 

駐日ポーランド大使館のスタニスワフフィリペックは、

 

被災した児童をポーランドに招待しました。

 

 

阪神淡路大震災の被災児童と、

 

かつてのシベリア孤児との対面が実現したのは、

 

1996年の夏のことでした。

 

 

彼らは、かつて日本人からもらった温かな心。

 

いま被災して悲しんでいる日本の子どもたちに

 

伝えたいと駆けつけてくれました。

 

 

彼らは自分が体験した日本人からの新設や行為を

 

日本の児童たちに語ると、

 

最後に元孤児の皆さんから被災孤児に

 

バラの花が一輪ずつ手渡され、

 

集まった人々から万雷の拍手が沸き起こりました。

 

 

その時、孤児の皆さんの目には涙が光っていました。

 

 

彼らはこのようにして75年前の日本人の善意も、

 

日本の子供たちに返したのでした。

 

 

その後も2011年の東日本大震災では、

 

絆の架け橋プロジェクトとして、被災児童30数名を

ポーランドに招待しました。

 

 

さらに甚大な被害を受けた、宮城県気仙沼市の幼稚園を、

 

寄付で再建するなどの支援をしたのです。

 

 

シベリア孤児から生まれた両国の絆は、

 

今もお互いを支えあい両国を強く結びつけています。

 

 

歴史的には日本とポーランドは

 

様々な分野で交流してたんですね。

 

軍隊的な協力もありましたし、

 

交流とかあの経済の面で、特に何かと

 

日本から色々手伝っていただいてるんです。

 

 

さまざまな分野でまた一緒に何かできればいいなと思います。

 

 

ポーランドでは日本の文化とかすごくよく知られてまして、

 

日本のことは好かれてるんですね。

 

 

それでも同じように日本でもポーランドのことも、

 

よりよく知ってもらいたいと思います。

 

 

文化や音楽をはじめ、さまざまな分野で

 

深まることできればいいなと思います。

 

 

日本とポーランドの歴史はせっかく100年まで至ってるということで、

 

やはり次の100年も手をつないで一緒に歩んでいきたいと思います。

 

 

 

極東青年会が栄えていた1930年後半、

 

当時ポーランド訪れた子爵、三島通陽はこう記しています。

 

 

『思えば十数年前のシベリア出兵のわが軍人さん達と

 

当時の日本赤十字社の人々は、

 

本当に良いことをされたものだと思う。

 

これらの人々は決してこんな結果を

 

予期してされたのではあるまい。

 

ただ哀れな孤児たちを見て純真な惻隠の心から、

 

孤児たちに温かい手を差し伸べたのだろう。

 

そこが日本精神だ。 

 

 

そこが尊いのである。

 

惻隠の心とは、他の人の不幸や危機に対して、

 

自分のことのように心を痛め、思いやる心のことです。

 

私たちの先人たちは、海の向こうの他国のことであるにも関わらず、

 

危機に瀕した子供たちを救い出し、自分の子供のように愛し、

 

彼らを祖国に帰還させました。

 

 

現代に戻って日本の周りを見渡すと

 

今も危機に瀕している民族や人々がたくさんいます。

 

私たちはそのような人たちに対し、

 

我々の先人たちと同じ心を持って

 

手を差し伸べることが大切ではないでしょうか。』

 

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https://www.youtube.com/watch?v=LQY4DLOXuSo

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【ポーランドと日本の歴史】 (大筋)

1920年、ロシア革命後の混乱の中、シベリアの劣悪な環境にポーランド人の孤児たちがいました。 孤児救済委員会は欧州各国に救済を申し出ますが、皆、申し出を拒否します。 そんな中、唯一申し出を受け入れたのが、我が国、日本でした。 当時独立したてのポーランドに対し、日本は独立の承認を行い正式に国交が樹立していたものの、外交官の交換もまだ行っていないときでした。困っている者がいれば、同情し、いても立ってもいられない日本人の精神がそこにみてとれます。 その恩を返すように、1995年の阪神淡路大震災、そして 2011年の東日本大震災では、被災した日本の子供たちがポーランドへ招待され、現地で歓待を受けました。 両国を強く結びつけたこの100年前の出来事を映像としてよみがえらせ、両国の絆を一層深めたいと思います。

 

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※唯々感動しました。

この様な国家を乗り越えて人命を救った事実をシエアさせて頂き、

微力ながら世界平和の一助になれるように祈っております。

この感動に心から感謝申し上げます。  ありがとうございました。

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